不定期日誌はいろすた

スーパー気まぐれ更新

棒バト構造論

 

 棒バトランキングに対する辛辣コメントの記事、読んで頂いた人が沢山いたようでありがとうございます。普段数ヶ月に一度しか更新しないブログなのにまさか3月頭で既に1000PV行くとは思わんで。

で、ブログ記事に対してここ数日くらい棒バト界隈なるものの人間が中々に騒ぎ、意を唱える人も出ていたわけです。「カッコ良ければいいじゃん」「棒バトの定義とか知るか」「自分の描きたいもん描けばいい(最強)」そらそうだわな。

そこで改めて自分の記事を見て思います。

「これ自分の好きなタイプの棒バトが少なくて駄々こねてんのと変わんねえな?」

元より一個人の意見であり鵜呑みにするものではない、との前置きの元で書いた記事でしたが、これじゃ時代の流れについていけずに口を出す老害そのまんまやろ〜という面もあるわけで。「言い過ぎ」という意見もあったんですが大体その通り、つまるところ「これは棒バトと呼びたくない」と言っているのとあまり変わらんのです。こども。

でもやっぱ自分の信念とするところの意見は撤回したくないし、同意してくれてる人もそこそこ見かけます。鵜呑みにする人は流石にいねえよな 様呼びする君は怪しいぞ

ならば「棒バトとはなんたるか」という自分の目線と意見を明文化し論ずるという体を成せばいいのでは?という考えに至りました。つまり「俺流棒バトの作り方・考察」的な指南書として残す、これなら丸く収まるはずや。

使えるところを取捨選択するもヨシ、全面的に乗っかるのもヨシ、うるせえ俺は我が道を往くと切り捨てるでもヨシ。なんかの参考になれば幸いです。

 

ちなみにやたらと文字数が多いです。お覚悟を。

 

 

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棒バト構造論

筆者:ZYES

 

1.分析する目的と、うごメモという環境

f:id:graystar445:20190308093537j:plain アナログな棒バト。全てはここから。

「そもそもパラパラ漫画の延長にしか過ぎない遊戯に、このような考察など必要無いのではないか?」「楽しく描けるならばそれが一番ではないのか?」

本文を読もうとする読者の9割が思うことであろう。私も実際のところそうである。パラパラ漫画を基礎とした手書きアニメーションなどは楽しく描くことが一番であり、それで「絵を動かす」ということに喜びを感じ、脳汁を感じるというのが理想的なのである。

しかしながら、そのような「動かすのが楽しい」という意識の中では「自分以外の視聴者」という概念は希薄なものである。そしてその意識のみで行動し続けることは難しく、やがて自己満足の脳汁では快感が足りなくなり、誰かに見せるという行動を取るようになる。徐々に「他者からの評価」を求め始めることとは自明の理であるのだ。再生回数、コインの枚数、の数、いいねRTの数、棒バトランキングの順位などと、そうした数は大いに溢れており、絵が動くだけで物足りなくなった人はこれらの「数」から逃れることはできない。

ならば我々が考えることというのは、如何にしてその「数」を増やしていくかということになる。どうすれば「数」を稼いでいけるのか、またどうすればそれを維持できるのか。我武者羅に作品を生み続けるのも良いが、一度自分らの作っているものを細かく分析して、方針を立てるという方策をここでは採りたい。

 

また、ここで我々の慣れ親しんだ「うごメモ」という環境についても言及してみたい。

パラパラ漫画を基礎とした短編アニメは、初めて作る人にとっては動いているだけで面白いという状態である。だがうごメモは自分の作品を世界に向けて発信する環境を用意した。自分も他人も作品を上げ続け、次第に作品の完成度が上がっていき、そしてユーザーも他者の評価を得たくなっていった。

評価とは一体どのようなものなのか?それには「主観的」「客観的」の違いがある。

「とても時間をかけたのだから良い」「このシーンを描くのに苦労したから良い」「このシーンがかっこよく描けたので良い」、これらは主観的であり、製作者にとっての感想である。対して「ここの動きが好み」「ここの演出が良い」「この技が派手でかっこいい」、こういったものは客観的な評価となる。作った本人の感想が含まれるか否か、というところが大きい。

だがうごメモユーザーがYoutubeニコニコ動画といった動画サイトユーザーと異なる点がある。うごメモというソフトが単純明快であり、作り手の労力が直ぐに分かること」「視聴者のほぼ全員がそのソフトで何かを作っていること」の二点である。つまり「自分が下す評価に、作り手の主観的な評価を上乗せしがち」という傾向がある。例を挙げるなら「ここの作画は俺には無理」「ここの演出は俺じゃ思いつかない」「こんなの俺でも描ける」といった評価である。作り手側に立った感想が多いのだ。そしてそうした空気は「高レベル制作者=権力者」の図式を作り出していたり、「動かせる技術力こそ全てで、画面構成がどうであろうと動いていれば無条件で凄い」という風潮の後押しになっていたりしそうである。

勿論それらの評価が悪いと言う訳ではない。ただこうした評価を下す人間が多いと、ニッチな手法が成長し続け「うごメモより外の大衆には理解してもらえない」といったことが起こる。うごメモという環境ならば通用したが、うごメモ以外だと通用しなくなっていく可能性が高い。もちろん世界は広いのでそれが好みという人間もいるにはいるだろうが、そんな人間は確実にマイノリティ側である。

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結論を言ってしまえば、先の棒バトランキングの多くの画風は「棒バトラー以外にはあまり魅力的に映らないのではないか?」と危惧している。もちろんうごメモやAltwugで完結させるなら構わないが、そんな環境から一般人を相手取る「アニメーター」という職業を目指したり、コンピに出して賞を得たりするのは大変難しいと思われる。ジャングルの中では無敵の野生児が街路樹しか無い都会に出てくるようなものだ。

そうしたガラパゴス化された環境にあった人間が、一般の開けた世界に出てきた時にどのような作品を作れば広く受け入れられるだろうか?ということ考えるには、やはり自分たちの作る「棒人間バトル」がどういったものかについて改めて分析し直す必要があるだろうと考える。

うごメモという枠組みを超えてでも自分の映像を作りたい」 と思っている監督基質な人にこそ、これらの分析は必要である筈だ。本文を参考にしていただきたい。 

 

2.考察と分析

私的な「棒人間バトル」の分析を書き記す。

我々が作る映像とは「棒人間バトル」である。概要を単純に言うと「棒人間が戦う動画」である。もっと単純化すると「バトル動画」である。つまりキャラクターが棒人間である、戦闘アクションアニメーションである。

棒人間バトル、ひいてはバトルとはどういった要素で成り立っているのか?これは動画に限らずいろいろな場面で見ることができるが、私個人としては先のブログでも挙げた通り、

・主役と敵役(の棒人間)がいる

・攻撃と防御があり衝突している

・ドラマ性がある

の三要素が満たされていれば、おおよそ棒人間バトルとしての体を成すのではないか、と考える。この三要素をここでは「棒バトの芯」と呼ぶことにしよう。

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昨今の棒バトには様々な描写があるが、オリキャラ」「演出」「立体描写(3D視点化)」「擬人化」などといったものは、全てこの「棒バトの芯」を引き立たせるものとして作用している。例えばオリキャラは主役と敵役の明示化になるし、「演出」は攻め守りの転換やドラマ性の強調に繋がる。「立体描写」も平面では表しきれない技の規模の大きさや機敏な動きの描写ができると考えればドラマ性を引き立たせるものになるし、「擬人化」も棒人間では表現しきれない表情や姿勢、髪の毛のなびき、傷描写をするものとすればドラマ性を引き立たせるものとなる。

ただ「擬人化」については、"棒人間"バトルと名乗っている以上、それをやっていいのかという疑問点が残る表現ではある。擬人化演出の短所は、棒人間と人間の姿が乖離しすぎている場合、主役と敵役の判断が曖昧になる危険性があることだ。極端な例を挙げるなら、「頭まで真っ黒な棒人間が戦ってたのに、いきなり全身白装束白髪のスカートを履いた女性が出てきた」となると、主役が行方不明になってしまいツッコみたくなってしまう=視聴者が現実に引き戻されてしまう のである。そしてこれは、ある程度人間と棒人間のデザインを寄せていても起こりうることであり、なるべくなら避けたい。

またドラマ性ばかり強調しているが、元より「戦い」とは物語でありドラマである。そう考えると「主役・敵役」や「攻撃・防御」なども全てドラマ性に集約されるのであるが、あくまで棒人間のバトルアクションアニメであるので、ここでは3つの要素に分割しておく。

 

「棒バトの芯」を遵守する場合とそうでない場合について、長所短所を考察する。

「棒バトの芯」に忠実な作品の利点は「戦闘が意味を持つ」ということに他ならない。そこにはすべからく物語が生まれており、見る人を惹き付ける要素の一つと成り得る。漫画やアニメ、ゲームもそうであるように、物語とは視聴者を魅了し夢中にさせるものである。「30人抜き」といった作品ならばボスを倒すまでの奮闘が、一騎打ちならば激しい攻防の末の決着までがそのまま小さな物語となり、見る人を掴み寄せるのである。「予告編」などで事前にキャラクターについての背景を語ったりすることは、戦いに意味を持たせ、視聴者をこちらの作る世界観へと引きずり込む効果がある。そのようにして、自分の構築した世界に視聴者を引きずり込むことができたならば、自ずと高い評価が得られるだろう。

そして「棒バトの芯」に忠実な作品の利点はもう一つあり、「その上で美麗な演出や目まぐるしい立体描写を加えることができ、惹き付ける視聴者を増やせる」ということである。アーティスティックな棒人間バトルでは画面の色が一気に変わったり歌詞文字を挿入したりするものが流行っているが、「棒バトの芯」に忠実な作品はそれをも搭載することもできるのである。つまるところ「凄いエフェクトが好き」「奇抜な演出が好み」といった、おおよそ棒人間以外の要素を好んでいる人もターゲットにできるという拡張性がある。

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 先の記事では演出重視な棒人間バトルについて批判したが、あれらの苦しいところは「常に新しい演出を開発し続けていかねばならない」ということである。棒人間が動くことすら演出にしてしまえば、いつかネタが尽きてしまうか、見る人間が飽きる。また芯が希薄であるため、演出以外の他の要素を組み込もうにも組み込めない、組み込みにくいといった難点も抱えている。拡張性のなさは「手法が開拓されきってしまい、皆がその手法に飽きて離れていってしまうことで、棒バトというジャンル自体が消滅しかねない」という危険性を孕んでいる。後述するミュージックビデオとしてならば演出重視だとしても長く生き残れるが、それは音楽をメインにした映像であって、その時点で「バトル」の枠組みからは逸脱していると言える。「棒人間が戦ってるらしいMV」と呼ぶ方が適する。

そして「棒バトの芯」から織りなされる小さな物語を期待している人間は、戦いを軽薄にしたこれらにはドラマ性を感じることができず「何がなんだか分からんかった」としか言えなくなってしまい、「バトルを見に来たのにバトルしてなかった」といった感じに作者の意図に関わらず期待を裏切られたような印象を受けてしまうのである。

ドラマ・物語とは「何が起きているか分かる」ことが最も大切であり、人を魅了することにおいての前提となる。「何が起きているか分からないくらい、派手で大規模な攻撃を行っている・受けている」といった不明瞭感は演出としては使えるが、それが全てになってしまうと何が起きているか分からない為、ドラマ・物語としては成り立たなくなってしまう。

 

だが「演出重視な棒バト」も力を発揮する場面がある。それはBGMとの親和性である。演出とは視覚効果に訴えるものであり、これに音楽を合わせるという手法はプロモーションビデオ(PV)やミュージックビデオ(MV)と全く同じである。曲に合わせて映像が変化していくといったものは、世界中で広く受け入れられていることからも分かる通り、バトルの生む物語とは違った中毒性を生み出す。

だが「棒バトの芯」を遵守するバトルは、それすらも利用を可能とする強みを持つ。BGMのサビの入りで主人公が覚醒する、BGMのドロップで一気に戦況が動く、アウトロの儚げなメロディに合わせて敵が崩れ落ちる、などといった手法は腐るほど行われてきているのだ。そこにバックストーリーや主人公の心情を絡ませるなどをしていけば、更に作品としての深みが増し、結果として視聴者を自世界に引きずり込み夢中にさせることとなる。棒バトの芯」が成す拡張性は無視できるものではない。

 

結局の所「棒人間バトルに何を求めるのか」ということになるのだが、「バトル」を名乗る以上は「物語・ドラマ」の要素があって然るべきだろう、というのが持論である。ここで述べたとおり「棒バトの芯」を重んじる作品は、様々な要素で多くの人を惹き付ける可能性を秘めている。人々を魅了して、人々の記憶により残るものを作りたいのであれば、「棒バトの芯」を確実にすることが求められるだろう。

 

 3. 実例に見る「棒バトの芯」の論証

こういう場では新たに作品を描いたりするのが良いのだが、過去の私作品で妥協させていただきたい。

www.youtube.com

「vsZ」、2016年上半期棒バトランキングにて1位を頂いた作品である。作品の内容については視聴してもらうのが最も早い。00:45~が本編である。

この作品は

・主役と敵役が明確である(レイヴントとイグニム、二体のKBN

・攻撃と防御があって衝突が起きている(正拳突きの衝突、大型変形による攻撃、ダメージ、回避など)

・ドラマ性がある(人の姿を逸脱した変形、大型変形同士によるぶつかり合い、BGM展開に合わせた攻めと守りの転換)

という点で、「棒バトの芯」は遵守されていると言える。

その上でそれらを引き立たせる要素として、

オリキャラ(主役、敵役の明確化)(KBNという特徴的なキャラクターの戦闘・衝突の表現)

・演出(サイバー演出による攻めの意思表示と大規模な攻撃であるというドラマ性の強調、バグ表示によるダメージを受けているというドラマ性の強調)

・カメラ変化・立体描写・3D視点化(冒頭の向かい合うシーン=二次元平面では表現できない距離感の描写、遠くからの視点を流すことで砲撃の規模の大きさを表す、見上げるような視点でビル壁面の高いところから落下してきたという描写などによるドラマ性の強調)

・予告編の導入(レイヴントを主役として据えることを明示)

・BGMとの調和(イントロやドロップに合わせた場面転換、カットインによる物語性の強調)

・他色々(トラックに降り立つときのヘコみによる衝撃感の描写、地面の破壊で威力の強さを描写など)

といったことを盛り込んでいる。

これらの要素は「二体のKBNが、様々な攻めと守りを繰り返して、大規模な攻防の末に決着(実際は続編へ続く)」という「棒バトの芯」に則っているからこそ付加できるものであり、ここがハッキリしていなければここまで要素を盛ることは叶わない。芯をしっかりした結果として高い評価を得るに至ったもの…と推測する。

ただこれを作るのも楽ではなく、どこでどのような演出を入れていくか、どのような画面構成にしていくかということを事前に練りこむ必要があり、アニメ制作で言う「絵コンテ」のようなものをいくつも作っていた。その流れからか、「絵コンテを練らなければ3DSに触れない」と尻込みしてしまうことが何度もあり、丸一年と時間がかかりすぎてしまったという背景がある。

「棒バトの芯」に基づいた制作の弱点はそこであり、「制作にかける時間や構想が大きすぎる故に、手軽に作品を生み出すことができない」。多くを考えねばならず、そのための手法や表現方法についての知識も多く持たなければならない。これは「手軽に動画を作れる」 といううごメモの長所と反する部分であり、演出重視や作画重視といった棒バトには劣る面である。この手法は映像制作において「監督」のやるものなのである。

映像を作ることにおいて「作画力」や「演出案」はもちろん大切ではあるが、こうした個人作品を作る場合においては、どのように画面を作りどう繋げていくかという「監督的な能力」も大きく影響し、棒バトにおいてはそこまで考えて作っている人は多くはない。だがこれは逆に言えば、今までそういったことをあんまり考えてなかったという人にはまだ伸びる素質があるということである。「見る人を自世界に引きずり込む作品」というのはそうそう簡単に作れるものではないが、それがヒットしたときの影響は凄まじいものとなるだろう。

 

4.結論と今後の展望

「棒人間バトルなど基本的に自由に作れば良い、だがもっと広い世界で高い評価を望むのであれば、「棒バトの芯」を基にした、映像作品的に拡張性のある棒バトを作ることをおすすめする」

というのが本文の主張となる。結局のところ何を描き何を評価するかなど自由であり、それを止める権利は他の人には無い。棒バトランキングがどのような結果になろうとも、そこでの流行を止めることなどできないのである。だが私の考える「棒バトの芯」を基にした作品づくりは、ただ作るよりは面白く、作り手の将来の為になる作品作りになるだろうと考えている。私も「これが俺の棒バトや」と言って次の作品を出せたらいいなあと、絵コンテに備えた思案を続けている最中である。

 

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長過ぎるッピ!!

でも言いたいことはだいたいこんな感じです。俺も早く「コレが俺の棒バトや」ってACPとかAlphaKnightsとか投げつけたいと常日頃から思ってますようん… 移動中にずっとBGM候補の曲流して頭の中で映像を流すのをもう同じ曲で2年近くやってますし、構想自体もほぼ固まってるんですけど、一旦絵コンテに起こさないと描けない病なので未だにソフトに落とし込めてないんですよね。もう時間もないのにね

 

でもAltwug絡みで近日中にお知らせできることがあると思います。たぶんね。